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超曲解!『薩摩の退き口』〜完結編〜

徳川軍の猛追を振り切り、海路脱出を果たした

義弘率いる薩摩軍は、その後も何度か危機に見舞われ

ながらも、ついに薩摩へ帰還する。

 

国境を越え、伊集院の街道を馬に揺られながら、

義弘は空を見上げた。

 

(いつぶりだろうか…。こうして空を眺めたのは。)

 

慣れ親しんだはずののどかな故郷の空気に、

義弘はリアリティを感じられずにいた。

 

もう何日も、何ヶ月も、前しか見て来なかった。

 

これは現実なのか。

 

まるで自分自身を空から眺めているような、

義弘は不思議な感覚に襲われた。

 

(俺は…生きているのか?)

 

多くの者が散って行った。

悲しみに暮れる暇はなかった。

振り返る訳にはいかなかった。

 

生きて薩摩へ。

生きて薩摩へ。

生きて薩摩へ。

 

(豊久、盛淳…約束は果たした。生きて薩摩へたどり着いたぞ。そしてこれから…俺はどうすればいい。お前たちがくれた命、俺はこれからどう使えばいい?)

 

家康がこのまま黙っているはずはない。

 

(これから薩摩は…俺はどうすれば…)

 

安堵している余裕はない。

戦はこれからだ。

 

失意と不安の入り混じる複雑な胸中のまま、

義弘は兄、義久と対面した。

 

 

「義弘…良く生きて帰った。」

「…。」

「どうした?」

「…たくさんの者を失った。」

「…。」

「俺を恨むか?ろくに兵を送らず、豊久や盛淳を死なせたこの俺を。」

「いや。あいつらが死んだのは西軍につき戦をした俺のせいだ。あの時俺が…」

「あの状況では仕方ないだろう。俺たちはハメられたんだ。家康によってな。」

「兄貴…気付いてたのか。」

「気付いたのはおそらくお前と同じ頃だ。俺が兵を出し渋るところまで、家康には読まれていたのだろう。」

「そして俺が無謀な戦に身を投じるところまで…全ては奴の筋書きどおりだったってわけか。」

「…いや。無謀ではない。お前の戦は実に見事であったと聞いた。退却戦を成功させただけでなく、薩摩島津の武を天下に見せつけた。」

「…。」

「お前たちの働きは、家康の描いた筋書きを大きく狂わせたはずだ。お陰で家康との交渉がやりやすくなった。」

「兄貴…。」

「後のことは俺に任せろ。必ずや島津を守ってみせる。我ら薩摩が徳川如きに意のままにされてたまるか。豊久たちの死、無駄にはせんぞ!」

 

 

その頃、家康は着々と関ヶ原の戦後処理を

進めていた。

 

敵側についた大名には次々と厳しい処分が

下され、その矛先は当然、薩摩にも向けられた。

 

義弘の西軍加担。

ここまでは家康の計算通りだった。

 

誤算は、義弘を生きて返してしまったこと。

 

しかも正面突破を許し、甚大な被害を被ってなお、

取り逃がしてしまった。

 

徳川の面子にかけても、薩摩をただで済ませる

わけにはいかなかった。

 

薩摩を処分するにあたり、兎にも角にも

まずは当主を出頭させる必要がある。

 

家康は薩摩に、当主出頭命令を出す。

 

「…だから薩摩は徳川に逆らう気はございませんって。もう許して下さいよ。」

「やかましい!とにかく上京してこい。」

「行くわけないでしょ。何されるかわからないんだから。そんなに怒らないでまずは話し合いましょ。ね?」

「ふざけるな!つべこべ言わず上京せい!話はそれからだ!」

「困ったなぁ…じゃあ行きますよ。」

「よーし。ようやく観念しおったか。最初からそうやって素直に…」

「あっでも俺、今年厄年なんですよ。来年にしときましょうね♡」

「ふざけるな!!」

 

再三の出頭命令をのらりくらりとかわしつつ、

一方で戦に備えて国境付近の軍備を着々と

固める義久。

 

口では恭順の姿勢を示しながらも、

出頭命令には頑として応じない。

 

しかも堂々と軍備を増強し続ける薩摩に、

家康の苛立ちは頂点に達していた。

 

「黙っていればいい気になりおって…貴様、いつになったら出頭する気だ!!」

「今それどころじゃないんですよ。悪霊に取り憑かれていて…」

「ふざけるのも大概にせい!儂がいつまでも甘い顔をしておると思ったら大間違いじゃぞ!そんなに潰されたいか!」

「だから…反省してるって言ってるじゃないですか。そもそも俺は東軍に参加するつもりだったんだから。それを突っぱねたのはそっちでしょ。」

「…だ、だとしても儂に弓を引いたことに変わりはなかろう。」

「あれは弟の義弘が勝手にやったことだから。」

「では義弘を引き渡せ!」

「イヤです。」

「じゃあお前がさっさと出頭せい!」

「もっとイヤです。」

「な…なにぃいぃ〜〜!?」

「もういいじゃないですか。コッチは十分反省してんですから♡」

「じゃあ国境に集めたあの軍はなんだ!」

「あれは運動会でもやろうと思って…」

「ふ…ふざけるな!!」

 

 

義久の、アレもやだ、コレもやだ作戦に

怒りが頂点に達した家康は、慶長5年9月、

九州諸大名に島津討伐を号令。

黒田、加藤をはじめとする、3万もの軍勢を

薩摩国境に集結させた。

 

「殿、本当によろしいのですか。」

「仕方なかろう。奴らをこのまま捨て置くわけにはいかぬ。」

「しかしこのまま戦となると…」

「分かっておる!」

 

 

家康にはうかつに攻めこむことができない理由があった。

 

関ヶ原での戦において、70万石の島津が出した兵は

たったの1500足らず。

 

つまり、薩摩にはほとんどの兵力がいまだ健在だという

ことになる。

それはどのくらいか…。

1万、いや、少なく見積もっても1万5千はあるだろう。

しかも、それを率いるのは…

 

あの島津義弘。

 

家康の脳裏に、嫌な記憶がよみがえる。

 

戦になれば、勝つことはできるだろう。

だが…。

 

もしここで苦戦して長期戦になるような

ことがあれば、家康に不満を持つ外様大名が

ここぞとばかりに反旗を翻す恐れがあった。

 

天下を獲ったとは言え、これから体制を盤石な

ものにしていかなければならないというこの時に、

それだけは絶対に避けなければならない。

 

関ヶ原で島津の鬼神の如き戦を見せつけられた

ばかりの家康は、うかつに動けずにいた。

 

戦は回避し、なんとか交渉で決着をつけようと

武力を背景に薩摩に圧力をかける家康。

 

そんな中、決定的な事件がおこる。

 

「申し上げます!」

「なんじゃ。」

「明の貿易船が…何者かに襲われ沈没いたしました!」

「な…何じゃと…」

 

何と薩摩沖で幕府と明(中国)の貿易船2隻が

沈没させられるという事件が発生。

 

この事件の黒幕は島津だとされている。

薩摩藩は幕府よりずっと前から密かに明との

貿易を続けており、幕府が明と貿易をするには

薩摩の協力が不可欠であった。

 

つまり薩摩は、

「我々に手を出せば…どうなるか分かってるよね。」

という徳川に対する無言の脅しをかけたとされている。

 

「いやはや。大変なことになりましたねぇ。悪いことする輩がいるもんです。」

「お前じゃろうが!お前がやったんじゃろうが!!」

「いやいや、まさかそのような大それたこと…」

「お前らしかおらんじゃろうが!このような大それたことをしでかすのは!!」

「証拠はあるんですか。」

「くっ…。」

「ないでしょう。そりゃそうですよ。我々じゃないんだから。しかしまあ、殿のお疑いはごもっとも。徳川にいまだ不満を持つ者が我々家中におるのも事実。」

「なんじゃと!?」

「いやいや、誤解しないで頂きたい。我々薩摩はあくまで徳川に逆らう気はございませんって。そのような輩は、俺が抑えつけているところです。ただ…。」

「ただ、なんじゃ!」

「ただ…薩摩者は気性が荒くてね。何をしでかすかわからん。俺も血の気の多い奴らを抑えつけるのに難儀しているところですわ。困ったもんです、ハハハ。殿も重々、お気をつけを♡」

「くっ…ちくしょおぉおぉ!」

 

薩摩を攻めることで、貿易による経済基盤まで

失うことを恐れた家康は態度を軟化せざるを得ず、

島津討伐軍を撤退させる。

 

そしてその後も義久のイヤイヤ作戦に

強気に出ることができない家康は、慶長7年、

とうとう島津家の処遇を発表。

 

内容はなんと、

本領安堵(お咎めなし)。

 

毛利や上杉など、関ヶ原で西軍に加担した大名の

多くが、減封(領地没収)やお家取りつぶしなどの

憂き目にあう中、本領安堵を勝ち取ったのは

島津のみ。

 

実に2年以上にもおよぶ、義久の狡猾で粘り強い交渉が

実を結んだ瞬間だった。

 

最後まで薩摩を討伐することができなかった家康は、

生涯このことを心残りとしており

死の間際にこう言い遺したという。

 

「儂の遺灰は…薩摩の方角に向かって撒けい。」

 

 

義弘の武、義久の智によって九死に一生を得た薩摩藩は、

その後ますます一匹狼ぶりを発揮。

独立独国の様相を呈するようになる。

 

関ヶ原で家康らに振り回されたのは、

幕府をはじめとする国家中枢の事情に疎かった

という背景があった。

 

この反省から、以後は各地に密偵を配置し、

全国の情報をくまなく収集。

一方で、越境してきた密偵は、

たとえ幕府関係者であっても厳しく断罪、

自国の情報漏洩防止に努めた。

 

また琉球を介した他国との密貿易によって

着々と国力を蓄えていった。

 

そして250年後ーー。

 

遺灰を薩摩に向かって撒け、と言い遺した

家康の杞憂は、現実のものとなる。

 

西郷隆盛や大久保利通率いる薩摩藩を中心とした

『倒幕運動』。

 

徳川幕府250年という太平の世を築いた偉大な男、

徳川家康。

自分が遺してしまった禍根によって

それが崩れていく様を、

明治維新という新たな日本の夜明けを、

彼はどのような思いで天から眺めていたであろうか。

(完)

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