お知らせ

超曲解!『薩摩の退き口』〜前編〜

整骨院にて。

 

「背骨が曲がってますねー。」

「そんなはずありませんよ。背筋を伸ばして、胸張って生きてますから。」

「逆ですよ。背中が反りすぎてます。」

「…胸張って生きてますから。」

「どんだけ自信マンマンなんですか。」

 

背骨が曲がるくらい堂々と生きている院長、松下です。

 

 

さて、こないだいつものように通勤していると

道ゆく人の中にリュックを背負った

アウトドアスタイルの方がチラホラ…。

 

皆さん松元方面に歩いていく。

 

そうか。今日は妙円寺詣りか。

 

鹿児島ではお馴染みのこの行事。

文字通り、伊集院の妙円寺までの道のりを

行軍するというものです。

 

そして妙円寺詣りと言えばやっぱりこの方。

分かるあなたは歴史マニア。

 

鹿児島の方は知っている人も多いでしょう。

JR伊集院駅前のあの銅像です。

 

いや〜。やっぱいつ見てもかっけー。

 

戦国武将 島津義弘(1535〜1619)

薩摩藩16代当主島津義久の弟で、

言わずと知れた妙円寺詣りの主役。

 

僕が歴史上の人物の中でトップクラスに好きな

人物です。

 

僕の地元ひいきをさっぴいて、控えめにいっても

めちゃくちゃカッコいい。

 

今日はこの方をテーマに…

 

い、いや、だって妙円寺詣りだったから…。

知ってますよね?妙円寺詣り。

 

なに、知らない?

県外の方?

そうですか。

 

 

島津義弘の魅力といえば、とにかくこれ。

 

強かった。

すげー強かった。

 

戦国時代屈指の猛将として当時から有名人であり、

『鬼島津』と呼ばれて恐れられていました。

 

そんな島津義弘の鬼っぷりを表すエピソードを

いくつかご紹介しましょう。

 

・19歳の初陣で、5本の矢を身体に受けながらいきなり敵の首をあげる(それなりの立場にある人の初陣はふつう、戦に慣れるための体験学習)

木崎原の戦で伊藤義祐軍3000人300人で倒す

泗川の戦いでは、明・朝鮮の大軍29000人(薩摩の記録では38717人)を7000人で撃ち破る

 

すごいでしょ?

 

とにかくこの手の武勇伝に事欠かない人で、

特に少ない人数で大軍を撃ち破るエピソードが

目立ちます。

泗川の戦いなんて圧巻ですよね?

 

また、武人としてだけでなく、

茶の湯や学問にも秀でた文化人でもあり

まさに文武両道。

 

家臣を大切にし主従分け隔てなく接して

いたため非常に慕われており、死後には、

殉死禁止令が出されていたにもかかわらず

13名の殉死(後追い自殺)者がいたといいます。

 

その武勇と実直な人がらで、敵方の武将からも

とても尊敬されていました。

 

豊臣秀吉も徳川家康も島津を恐れて

義弘と当主の義久を引き離そうとあの手この手を

画策します。

 

例えば、ワザと義弘を当主のように丁重に扱い、

義久を冷遇して内部分裂を誘発しようとしたり。

 

実際薩摩でも、義弘を当主に、という動きに

なったこともあるようですが、

義弘自身はなびかなかった。

 

「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」

 

兄であり当主である義久を立て、

敬う気持ちは終生変わることはなかったといいます。

 

とにかくドラマチックな武勇伝に事欠かない

島津義弘。

その最たるものが妙円寺詣りの元ネタである、

関ヶ原の戦いでの退却戦、

薩摩の退き口

です。

 

ネットにはこうあります。

 

伊集院の徳重神社の祭神、島津氏第17代大守島津義弘公は、1600年、今の 岐阜県にある濃州関ヶ原の戦いで豊臣方として徳川方と勇戦奮闘しました。しかし、 徳川方が優勢となり、退陣を余儀なくされました。その際、島津軍は、大胆にも敵 陣の中央を突破して、養老及び鈴鹿山脈の険を越え、ついに堺の港から無事故郷薩 摩に帰ることができました。

 

なんだか爽やかな説明ですね。

 

「へ〜。そうかぁ〜。」

って感じですね。笑

 

でもこんな爽やかなもんじゃありません。

そこには薩摩隼人の痛快かつ壮絶な死に様と

人間ドラマがありました。

 

今回は、当時から伝説的な退却戦として現在に伝わる

薩摩の退き口

を、僕の主観と脚色たっぷりストーリー仕立てで

お送りしましょう。

うまく伝わるといいなぁ…笑

 

 

時は慶長5年(1600年ごろ)、

豊臣秀吉亡き後、世は真っ二つに割れようと

していた。

 

ここぞとばかりに覇権を握らんとする徳川家康。

それを良しとせず、豊臣に忠誠を誓う石田三成。

 

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(豊臣側)

との対立は深まるばかりで、両者の緊張は

極限に達していた。

 

そんな中、京都にいた島津義弘のもとにケンカ中の

兄、義久から連絡が入る。

 

「家康から援軍の要請があったからさ、お前ちょっと行ってこいよ。」

「はぁ?なんで俺が。俺どっちかっつーとみっちゃんに味方したいんだけど。恩があるから。」

「お前の意見は聞いてねーんだよ。当主は俺だぞ。とにかく約束したんだからさっさと行ってこい。」

「兵は?」

「お前持ってんだろ。」

「1000人もいねーよ!国から援軍送ってくれよ!」

「参勤で上京してる豊久いるだろ。アレ合流させるから。それでなんとかしろ。じゃあな。」

「ふざけんなよ…。」

 

この頃、島津氏内部でも、反豊臣の兄、義久派と

親豊臣もしくは中立的な義弘派で分裂状態に

あった。

そもそも、これまで九州で好き勝手暴れまわってきた

島津には、豊臣方はすでにさんざん手を焼いており、

家康にとっても、天下獲り後の悩みのタネとなる

存在だった。

 

九州のほぼ全てを一国で制圧してきた、

一匹狼、薩摩島津。

 

徳川だろうが豊臣だろうが、

どちらかに加担する明確な理由は彼らにはなかった。

 

そんなわけで正直どっちでも良かった義弘は、

兄の命令でしぶしぶ家康の家臣である鳥居元忠に

合流すべく、伏見城へ向かった。

 

「伯父上〜!豊久、参りましたぞ!」

「おう、豊久。待ってたぜ!」

「話は聞きましたぞ。この豊久が来たからには1000人力。さあ、参りましょう!」

「頼もしいぜー!1000人力…ってお前、200人くらいしかいなくない?」

 

参勤帰りで十分な戦力を持っていない甥の

島津豊久を加え、とにもかくにも1000人程の

軍勢を率いて義弘は伏見城に馳せ参じた。

 

「え?援軍?聞いてないなぁ…。」

「いや、そんなハズないっスよ。たしかに国もとの兄貴から…」

 

1000人の小隊を一瞥し、鳥居元忠は冷たく

言い放つ。

 

「とにかくそんな話は聞いてないから今日のとこは帰ってよ。」

 

「どーなってんだ、ちくしょう…。」

「完全にナメられてますな。」

「ま、しゃーないな。このまま帰るのもアレだし久しぶりにみっちゃんに会って帰ろうぜ。」

「さすが殿!自由人ですな!」

 

東軍に冷たくあしらわれた義弘は

ピクニック気分で西軍参加へ動きだす。

 

「…てなわけで兄貴、俺みっちゃんに会ってくるわ。」

「はぁ?」

「だって帰れって言われたからしょうがないじゃん。俺たちナメられてるぜ。」

「まぁ、たしかにな。」

「ちょろっと挨拶して、もし手伝ってって言われたら手伝ってくるわ。」

「ノリがクラスマッチだな。じゃあ援軍送ってやるよ。400人くらい。またナメられたら困るからな。」

「400人て少なくない?」

「クラスマッチならこんなもんだろ。」

「たしかに。」

 

この戦、いちばんナメてるのは島津兄弟であった。

 

「お〜い!みっちゃん!俺だよ、俺。」

「お、おう。義弘か…。」

「家康とケンカしてるんだろ?なんなら加勢してやってもいいぜ。いい作戦思いついてさ…。」

 

石田三成は小勢の義弘たちを一瞥し、

 

「すまん。今忙しいんだ。遊びに来たのなら悪いが前線の方で待機していてくれないか?」

 

関ヶ原に布陣した、東・徳川軍、西・石田軍(豊臣軍)は、

もう2時間以上睨み合っていた。

 

そんな張り詰めた膠着状態の中、

遂に東軍・井伊直政が動く。

 

井伊の進撃をきっかけに、まるで緊張の糸が

切れたかのように一気に両軍入り乱れての

大乱戦となった。

 

ついに決戦の火蓋は切って落とされた。

 

そんな中、島津義弘はふてくされていた。

 

「やってられるか。なんで俺がこんなクラスマッチに付き合わなきゃなんねえんだ。ろくに話も聞いてもらえねえし。」

 

小勢だったためか、東西両軍から冷遇された

義弘はもはや完全にやる気を失っていた。(※ちなみにこれは家康の策略だったという説がある。つまり、東軍に誘っておきながらワザと冷遇することで義弘を孤立させ、西軍に潰させるか、何らかの口実をつくって自ら潰す。いずれにしても家康はそれだけ当時から島津を恐れていた)

 

剣戦の音が絶えることのない血戦の中、

群がる兵を蹴散らしながら、兵を動かすことなく

ダンマリを決め込む島津軍。

 

一方、一進一退の攻防が続く中、ついに均衡が破れる。

 

小早川秀秋の寝返りによって流れは一気に東軍へ。

 

それまで西軍の中で奮戦していた石田三成や

小西行長、宇喜多秀家らが総崩れとなり

敗走を始める。

 

西軍の崩壊は止めようがなく、その結果

島津隊も退路を遮断され、敵中に孤立してしまう。

 

戦局は終盤を迎えていた。

 

「…終わりだな。」

「そのようですな。」

「さ〜て。そろそろ行くとするか。」

「伯父上、どうなさるおつもりか?」

「決まってるだろう。これからが島津の戦よ。とは言えもう勝敗は決しているからな。ならば見事な死に花を咲かせ、ナメたやつらに薩摩島津の武を示すのみ!派手に暴れるぞ!」

「…殿。お待ちくだされ。」

「どうした、豊久。おじけづいたか?」

「このような戦で殿を死なせるわけにはいきませぬ。」

「何を今さら…。もういい。戦は終わっている!」

「戦は終われど、島津は終わりませぬ。殿の武なくして、これからの島津は立ち行きませぬぞ!島津義弘あってこその島津!」

「…。」

「…我らが命を捨て、殿を薩摩にお送りします。」

 

豊久はニヤリとして言った。

 

「鬼島津が、まさか我々の命じゃたりませぬか。」

 

義弘も笑った。

 

「ふふ…そう来たか。ならばお前らの命、俺が貰おう。」

「殿!」

「だがここまで付き合わされて家康に挨拶もせずに帰るのもシャクだな。」

「殿…まさか…。」

「皆の者、前へ!我々はこれより薩摩へ退却する。だがその前に、東軍を割り、天下に薩摩の豪剣を示す。この剣をもって家康に挨拶するとしよう!」

 

 

天下分け目の関ヶ原。

死闘のさなか、参戦しておきながら

どちらに与するともなく、

ただひたすらに静観の姿勢を保ち続けた

ヘンな部隊があった。

 

島津義弘率いる薩摩兵。

 

沈黙を守っていた強兵が今、動き出そうとしていた。

(中編へ続く。笑)

 

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